私の半生記 らしきもの

 

19601123仙台市に生まれる。

 民放(東北放送)に勤める父と専業主婦の母という、極く普通の家庭の長男として誕生。生まれた日は勤労感謝の日。お陰で誕生日はいつも休日。

それが良かったかどうかは何ともいえないが、本来働く人(うちの場合は父)への感謝と慰労のための日なのに、いつも私が主役になってしまい、父には申し訳ない気もする。

出生時、乳児期に特別なエピソードや事件は無い。

4才頃 何故かピアノを習うことに。これが音楽の事始め。別に自分から興味を示した覚えは無いし、両親も特に音楽に関係が有った訳では無いから、ピアノを習わせようと考えた理由はわからない。(そういえば今までその理由を聞いたことが無かったな。)

 習いはじめたらメキメキと才能を発揮して、などということは有りませんでしたが、このあたりの時期に不思議な記憶があります。それはピアノの先生の家に行くと、いつもピアノの近くに手書きの楽譜が置いてあったのです。おそらく先生が何かの曲を写譜でもされたのでしょう。その手書きの音符が、何故か子供心に印刷の音符より美しくかっこよく見えたのです。                                    

 母が言うにはこの時期、自宅のオルガンに向かって5線紙に音符を書き付けている私を何度か見たといいます。ただ、私自身は作曲していたという記憶は無いので、きっと先生のような手書きの譜面を書いてみたかっただけなのだと思うのですが。

 それにしても自分にとっても不思議な記憶です。自分に才能が有ると思ったことはほとんどありませんが、仮に才能というものが有るとすれば、やはり他の人があまり興味を示さないものに惹かれる、ということ自体がその始まりなのかも知れません。

 もっともピアノのレッスン自体はあまり熱心では無く、先生もビシビシやるタイプでは無かったので、非常にスローペースで進み、2年かかってバイエルも終わらないといった風でした。しかも3年生の時に転居することになり中断、引っ越し先でピアノを再開したのはその2年後の5年生の時でした。 

 これ以外に幼児期に音感教育などを受けたことはありません。今のヤマハなどの幼児教室を見ると、私もあんな教育を受けたかったと少し羨ましく思います。ちなみに絶対音感はありません。

小学校3(9) 学校の音楽の時間で初めて自覚的にメロディーを作曲。これが先生に誉められてその気になる。何を誉められたかというと、他の子達は当然ハ長調で作曲し、先生もそれ以上のことは期待していなかったに違い無いのですが、私ひとりがヘ長調で作曲し、しかも一ケ所ナチュラルをつけたのでした。ナチュラルはいわゆるドッペルドミナントの和音上でのメロディーのためにそうなった訳で、そこを特に驚かれたようです。私としては全く感覚的にナチュラルの方がいいと思ったからそうしたわけです。

 3年にもう一つの出来事がありました。我が家に初めてステレオが来たのです。今から30年も前のことなので、どの家庭にもステレオが有る状況では無かったと思います。我が家でもそろそろステレオ位あってもいいだろう、といった位の感じで買ったのでしょう。 両親とも特別クラシックファンという訳では無かったので、試聴用に初めに買ってきたレコードはベートーヴェンの「運命」と「第9」がいっしょになったものと、ドヴォルザークの「新世界より」の、まさに入門的なレコード2枚でした。最初は物珍しさで聴いていましたが、すぐにステレオはほとんど私の専有物になっていました。

 聴いているうちに不思議なことに気付きます。曲の中で他の所以上に妙に気持ち良く、何度もそこだけ聴きたくなるような箇所が何ケ所か有ります。どうしてそこが気持ち良く感じるのか、その秘密が知りたくなりました。それにベートーヴェン作曲とあるけれど、どのようにしてこんなに多くの音を出せるのだろう。ピアノ曲なら2段の楽譜であることは分かるのだけど。などと思っていると、ある日ヤマハでスコアというものを見つけました。それを見つけた時、ああこういうことになっているのかと、秘密の設計図を知ったような気持ちになり、とてもドキドキしました。早速スコアを買い、スコアを見ながらレコードを聴くようになり、それから少しずつレコードとスコアは増えていきました。

 スコアを見つけても、結局分からないことは一杯です。「なぜビオラという楽器は見たこともない記号で書かれているのだろう。」「なぜ、クラリネットやホルンは他の楽器と同じ音を出しているはずなのに、音がずれて書かれているのだろう。」などなど。未知のことは逆に気持ちをワクワクさせてくれます。多くの疑問を自分なりに解決し、何とスコアを買った半年後には交響曲を書きはじめました。もちろん手におえる訳がありません。少しずつ書いたり直したりを中学頃まで続け、結局4分の1も出来ませんでしたが、構想だけは壮大で、完成していれば演奏時間40分にもなる大曲のはずでした。

 黄色く変色してしまった当時の譜面が今でも残っていますが、「この音符は間違っていますので印刷しないで下さい。」などと書き込みがあり、完成したらすぐに出版される気になっていたようで、我ながら微笑ましい限りです。そういえば、日本で初めて交響曲を作曲した小学生ということで話題になって、当時大好きだった音楽番組「オーケストラがやってきた」に出演するんだなどという夢も見ていましたっけ。

 小学校4(10)から6年まで、学校の鼓笛隊で大太鼓を担当しました。「大太鼓はリズムの基本を作る大変重要なパートなので、誰でも良いというものでは無い。」などと音楽の先生におだてられてやっていましたが、自分としてはそれほど乗り気でも無かったように記憶しています。大太鼓を抱えて歩きながら叩いたりするのですが、ともかく重くて大変でした。

 小学校5(11) なぜか急にフルートに興味を持ちました。親がヤマハで楽器をレンタルしてくれましたが、吹いてみるとなかなか音が出ません。これはやっぱり習わなくてはと見つけたのが何と「女性のためのフルート教室」。男の私は入れてくれないかと思いましたが、まだひげもはえていない子供なので良いということになった様です。
1年間程習いましたがあまり上手くなりませんでした。

 小学校6(12)の頃、仙台市の音楽祭か何かで合唱団のメンバーに加えられ、舞台で福井文彦先生の合唱曲を歌いましたが、太鼓のリズムを模したドンドカドンといったパートの出を間違え、一人私の声だけが会場に大きく響き渡りました。私の顔はみるみる真っ赤になっていきました。ああ恥ずかしい。

  

 中学時代                                             長町中学校に進学。ブラスバンド部に入部。やはり少しは経験があるフルートにしました。しかし、1年の時のコンクールではフルートパートは先輩で数が足りていたので、ウッドブロックで出場しました。2年生では当然フルートでやれたところを、自分から志願し、先輩が卒業して空席になったティンパニを担当しました。ティンパニに興味を持った理由は、フルートだとソロ以外はあまり目立たないのに、ティンパニは結構暇なくせに出る時は結構目立つのでいいと思ったためでした。

 中学時代は作曲は時々思い出したようにやる程度でした。学校の勉強で時間が取られていたことも有るけど、他に多趣味で天文、歴史が好きで、そっち方面に時間がとられていたことも有ります。 音楽経験としては2年、3年時に校内合唱コンクールの指揮者をしました。特に3年次は絶対1位を取ると強い意気込みで、それがクラスのみんなにも伝わったのか感動的に盛り上がり、期待通り1位を取りました。とても良い思い出です。 実は、私は基本的には歌うことは好きではなく、(その理由は無駄に息を使いたくないからというすごい理由)今でもそれは変わらず、特にカラオケは絶対いやですね。

 高校時代仙台第一高校に進学しました。この学校は歴史が古く、いわゆるバンカラの気風が色濃く残る男子校で、自由な校風の中で楽しい3年間を過ごしました。ただ東北で有数の進学校だったので、周りの連中は中学校では常に成績が上位だった人たちで、勉強は大変でした。                                    

 部活は中学同様ブラスバンドに。中学と同じく1年次は先輩にティンパニーをやっている人がいたのでフルートに戻り、2、3年次にティンパニーをすることになりました。

 1年の秋、音楽大学への進学を決心し、和声を本間雅夫先生(現宮城教育大学名誉教授)に習いはじめました。2年の夏休みには東京音楽大学の夏期講習会に参加。その時の作曲個人レッスンは何と池辺晋一郎氏でした。3回だけのレッスンでしたがとても印象深いレッスンでした。

 3年の春、やはりどうせ受けるなら芸大にとの意志を本間先生にお伝えしたところ、それなら東京の先生についた方が良いとのことで、現在テレビにも良く出ている有名な三枝成章氏を紹介していただきましたが、三枝氏はテレビの録音などで忙しいらしくなかなか捕まらず、やっと連絡が取れたら「芸大なんか大変だから止めた方がよい。」といわれました。他の人にも「無理だ」とか「諦めろ。」と言われましたが、もし言われたとおりに諦めていたなら今の自分は無いわけで、まあ人の意見など気にするものではありませんな。

 それでも是非にとお願いすると、自分は忙しく見れないからと北村昭先生を紹介していただき、5月から通うようになりました。当時はまだ東北新幹線も完成しておらず、仙台の家から先生の国分寺の家まで片道6時間はかかりました。夜行バスで帰ったこともありました。今思うとよく通ったものですが、若かったのですね。北村先生に初めてお会いし、今までの勉強したノートをお見せすると「最低2年かかる。」と言われました。この時点で一浪の宣告をされたわけですが、現役の受験では予想以上の出来で、あと少しで合格という所まで行ったようですが、最終で不合格。予定通り1浪して東京芸術大学作曲科に入学しました。大学合格は今までの生涯で最も嬉しい出来事でした。大学4年、大学院2年をここで勉強することになります。

大学時代

楽しい時期であるとともに、鬱屈した時期でもありました。今となれば全てなつかしい青春の思い出でしょうか。作曲の指導教官は1年が受験の時からお世話になった北村先生、2年次は八村義夫先生3年次には南弘明先生を主指導教官として、第2実技としてもう一人の先生に付ける仕組みになっており、松村禎三先生に付きました。4年次以降大学院修了までは黛敏郎先生でした。いろいろな先生に習えたのは良かったと思いましたが、普通はずっと同じ先生という学生の方が多く、毎年先生が変わるのは珍しいようです。別に問題児で手に負えないとの理由で、たらい回しにされたという訳ではありませんので念のため。

以上の先生の中で特に思い出深い方といえば八村先生でしょうか。最初のレッスンで私の曲を見るなり、「もうこんなアカデミックなことは止めたら」とおっしゃいました。私にとってはシヨッキングなことでした。それ以降も、短く朴訥ながら印象的な言葉が非常に心に残っています。私が大学院在学中に惜しくも病死されました。

 3年次は私にとってスランプの時期で、南先生のレッスンは年に3回くらいしか行かなかったのではと思います。南先生も不真面目な学生と思ったことでしょう。今となるとスランプとはいえレッスンに通わなかったことは、もったいないことをしたものだと思います。後年、私が芸大非常勤講師になり久しぶりに南先生とお会いした時に、在学中の不真面目を詫びたところ、先生はニコッと笑って「今からでも遅く無いよ。」とおっしゃいました。

 同じ時期についた松村先生にも、同じようにあまり曲は持っていけませんでしたが、先生の曲の発表の折にはよく御一緒させていただき、よい経験となりました。とても作曲姿勢に厳しい方で、「バカ」と怒鳴られたこともありましたが、作品とそのお人柄ともに尊敬すべきことが多く、自分にとっては八村先生と並んで心に残る方です。

 ただお世話になった期間が短かかったためか、他の学生より深く入り込むに至らず、先生も私のプロフィールを見て「君に教えたことがあったっけ。」なとどおっしゃる始末です。もっともその後も折々にお会いすると、いろいろと気には止めて下さっている様子で、以前のことや曲もちゃんと覚えてくれていました。黛先生は一番長くお世話になった訳ですが、TV番組の司会で見る通りの、実に紳士的でスマートな方でした。黛先生も数年前、惜しくもお亡くなりになりました。

 

 大学在学中で一番の事件と言えば、「中棹三味線と管弦楽のための相響」を作曲して、それがニューヨークのカーネギーホールで演奏されたことです。そのいきさつは、同期の邦楽科に鈴木淳雄君がいたのですが、彼は常磐津の家元である常磐津文字兵衛氏の長男というすごい方でした。現在はすでに5世常磐津文字兵衛を襲名されておられます。その彼は家元の長男というイメージとはかけ離れた現代的なセンスとユーモアに溢れた人物で、私とはすぐに意気投合しました。

 2年生の時、学食で彼を含んで友達連中と話していると、誰かが「そういえば三味線コンチェルトって無いよね。」という話になり、それが盛り上がって面白そうだから作ってしまえという話になってしまいました。そして、その年の芸大芸術祭でメンバーを募って初演しました。評論家に案内を出したところ、何と現代音楽評論の重鎮、上野晃先生が聴きに来てくれました。ご挨拶をするとテープを送ってくれと言われました。その時送ったテープがニューヨークで日本の現代音楽を紹介しているミュージック・フロム・ジャパンの三浦尚之さんに渡り、興味を持っていただき取り上げていただけることになったという訳です。三味線はやはり鈴木淳雄君以外ありえないということで、2人してニューヨークに乗り込むことになりました。

 ニューヨーク滞在の二週間は、それは素晴らしい2週間でした。というのもさすが常磐津の家元、何とお弟子さんには三井物産の会長、野村証券の社長といった蒼々たる方がおられたのです。意外な感じもしますが、常磐津はエグゼクティブの手習いとしては粋ということなのでしょうか。それらの方にこの話が伝わると、お世話になっている家元の息子さんがニューヨークのカーネギーホールで演奏するということで、三井物産、野村証券のニューヨーク支社に面倒を見て差し上げるようにとの指示が行ったようです。おかげで元々の原因となった曲を作曲した私も、当然その恩恵をこうむっていい思いを出来たわけです。いくつか例をあげると、滞在期間中はニューヨークでトップレベルのホテルにある野村証券のゲストルームを無料で提供してくれました。セントラルパークに面したスウィートです。三井物産は観光のために運転手付き高級車を用意してくれました。あとは接待のお食事、国連大使との食事会出席などなど。あんな思いは2度と出来ないのではという位でした。この曲はその後も何度か再演され、私にとってとても重要な作品になりました。

 

 私の大学の同期で今活躍している人にはサックスの須川展也くん、フルートの山形由美さんがいます。

 大学院終了後は専門学校の非常勤講師を掛け持ちし収入を得ていました。まあ、いろいろと大変でした。
1996年に東京学芸大学の専任講師となり、99年に助教授に昇任し現在に至っています。定職を得られたのはとても嬉しかったです。経済的に安定することは精神的にも安定するものですね。なにしろ非常勤講師はやった分だけで、いきなりもう来なくてもよいといわれても仕方のない身分でしたから。 その後もいろいろありますが、現在に近いほど記憶が新しい分、書きにくいので、またいずれかの機会に。